
思いやりは人を思いやるという場面で使われます。しかし、もう少し敷衍化して自分が接するもの全てに思いやりを持つことが本質であると考えています。思いやりは他人の気持ちを理解し、その人の立場や状況に配慮する心のことをいいますが、本質を捉えると、思いやりには相手を大事にすること、大切にすることが背景にあると考えるからです。会話がなく他人の気持ちを理解することができなくても、相手を慮ること、相手の立場や置かれている状況を想像することができます。こうなんだろう、こんな状況なんだろうという感覚を常に持つことにより、相手の現状を推測するのです。
となると、モノでも動物でも思いやりの対象になります。動物と会話できる人も稀にいるようですが、モノや動物と会話できないまでも状況を推定し、対応の仕方やそうできなかった場合にはどのような結果になるのかを想起することはある程度できます。
卑近な例ですがPCやスマホであっても、それをどのように扱うのかにより、さまざまな結果が惹起されます。大切に使えばよく働いてくれるし、雑に扱って、ほぞを噛むことが多くありました。
もちろん思いやりは自動的に対価をともなわないことはわかるものの、大事に、大切も含めた広義の思いやりを持って接しなかったことにより大きなマイナスや代償を払うことがあります。いや、大抵の場合に大なり小なり有形無形のロスがあります。
そうして考えると人でもモノでも動物でも同様であり、大事にする、大切にする思いで思いやりの範囲を広げて、向かい合うすべて対象に接していくことが必要です。
自分の生活に流れる時間についても大切に考えて活用することや、情報についても、カネについても同様に考えることができます。つまり、人は広義の思いやりで組織の経営資源そして「人生の資源」であるヒト、時間、情報、モノ、カネに接していくことが大事だと気づくのです。人が常に向かい合う、自分の資源を大切に思いやりを持って行動することにより多くの成果を得られるし、ロスをなくすことができます。広義の思いやりを以て触れ合うものに全てに接していく、向かい合っていくことが人生成功の要諦だという結論です。
なお、人生資源において有限なのは時間だけです。もちろん時間も有効に使うことにより価値を最大化することはできるのは周知の事実ですが、他のヒト、情報、モノ、カネという資源は自分の意思や行動により、どのようにもなり得ます。脆弱なものにも強大なものにもなるのです。
自分を大切、大事にしながら、これら人生の資源に広義の思いやりを持って積極的に関わり、どのように価値を高めていくのかを考えて行動するなかで人に対する思いやりが生まれているというロジックです。
そうでなければ「思いやり」という言葉に普遍性がなくなることに気づきます。接する人全てに(狭義の)一般的な思いやりだけで対応するのでは人生は完結しません。自分の人生を豊かで、あるべきものとするために自分や資源を大切に、大事に思いやりを持って生きていくことが、他人に対する思いやりの本質であり源泉であると考えます。
「相手を思いやりましょう」ではなく、自分自身に真摯に向き合う生き方として相手を思いやるのは当たり前であり、その行動は自分の接する全ての資源に向けられた自然に生まれる意識の発露なんだという帰結です。
多くの素敵な人々の行動を見て、改めてそう生きられる自分になれるよう精進したいと思いました。